高円寺ヴィジランテ
最寄り駅は丸ノ内線の東高円寺なのだが、前の会社は神田だったので、毎朝15分ほど歩いて中央線の高円寺駅から乗っていた(会社最寄りの神田駅はゴチャゴチャして嫌いだったのでいつも御茶ノ水で降りていた)。
低血圧で朝が辛いので、毎朝クラクラしながら同じ道を通うのが苦痛だった。そこで通勤を少しでもエキサイティングなものにするために、日ごとに駅までのルートを変えていた、。でも駅からの帰り道はいつも同じだった。
私にはミッションがあった。
高円寺駅の数百メートル南を東西に延びる短い通りを東に行くと、交番を少し過ぎた右手にボロいアパートがある。そこにはいつもドキュンのビッグスクーターが白黒2台停めてあって、そのうち黒い方のナンバープレートが常に上にひん曲がっていた。
それはもちろん、なにか悪いことをして逃げる際ナンバーが見えにくいように、故意に曲げられたものだった。
中学時代ヤンキーに毎日キンタマを蹴られていた私は、世の中のありとあらゆるドキュンを憎んでいた。なので「ナンバー曲げ」のような“ドキュン行為”を目にすると途端に頭に血が上ってしまう。
私はそれをブラジリアンキックで真っすぐに直して帰ったのだが、いつも次の日には上に向かってグニャリと曲がっていた。
来る日も来る日も私はナンバープレートを蹴り正し、日毎夜毎ドキュンはそれをひん曲げた。
ドキュンはムキになってナンバープレートをより激しく曲げ、私はさらに強く蹴りこんだ。
私はドキュンと出くわしたときのために中野の総合格闘技ジムに通うようになった。キック力が上がり、ナンバープレート蹴りも捗った。
ドキュンによって曲げられる角度は日に日に鋭さを増し、直角、やがては鋭角になった。
私のキックも日を追って強化されていき、プレートを平面に正すどころか、反り返らせるほどになった。
イタチゴッコが始まって3ヶ月ほどが過ぎた。
ジムに通いつめた私の身体は、昔のヴァンダムのようになっていた。
曲げ伸ばしを繰り返したナンバープレートは、塗装が一部剥がれ、金属疲労で破断を目前にしているように見えた。
私は、ドキュンがナンバープレートを新調したときのために、鉄板入りの安全靴を下駄箱に忍ばせていた。
ある日、いつものようにアパートの前を通ると、ナンバープレートは私が前日に蹴り正したときのまま、ゆるやかに反り返っていた。
もうあと3,4回も繰り返せば折れるかな、と思った。
ドキュンの部屋の明かりは、午前2時過ぎにもかかわらず灯ったままだった。
翌日、駐車場に黒のビッグスクーターの姿は無かった。
その翌日も、そのまた次の日も。
ドキュンは引っ越した。
アパートにはもう白のビッグスクーターと、まっすぐなナンバープレートしかない。
私の“世直し”は終わった。
春の風が吹いていた。温かいけれど、どこか冷たくて寂しいやつだ。
あれからもう1年が経とうとしている。
会社を辞めたので、今は最寄りの東高円寺駅を利用している。
今も私はジムでブラジリアンキックの練習を続けている。
そして今も、安全靴は曲がったプレートを待っている。