マークニズム宣言

偉くてすごくてたのしい

『ドリーム』とグーグル翻訳と、俺なりのネオラダイト

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#1 扇動編

例のごとく邦題に批判が殺到し、少々ミソがついた形での封切りとなった『ドリーム』(原題:Hidden Figures)

『ヒドゥン・フィギュアズ』じゃあ伝わらないし、難しいところだと思うので私には代案がありません。『ドリームガールズ』にかけたのだとしたらちょっと安直だと思うけど。

ソ連との宇宙開発競争が激化する60年代のNASAで、国家規模のプロジェクトを人知れず支えた「計算者」たちの闘いを描く実話ベースのドラマ映画で、お涙頂戴だと言われたらまあそうかもしれないけど、「やっちまえ!」が10回、「悔しいのう(泣)」が5回、「良かったのう(泣)」が5回で計20回くらいクライマックスが来て非情に感動的でした。

「計算する"もの"」というのが「コンピューター(compute +er)」という語の原義だ。

今はコンピューターといえば機械、"物"のことを指すのが当然のことだが、当時はロケットの周回軌道や着地点などはみな「めっちゃ計算が得意な人」がシコシコ割り出していたので、ここでは計算する"者"、計算者を意味するのだ。

彼女らはとても難しい演算をスラスラやってのけるので、その特技で白人男性たちの鼻を明かしてやる場面が何度も出てきて、見ている側としては大変な快感が得られる。

私は大学入試センター試験の数学Ⅱ・Bがマジで1問も分からなかったので、イチかバチかで分数の空欄に1/2、1/3、2/3、分子が2桁なら左側にマイナス記号を当てずっぽうで入れたところ18点も取れた。NASAもびっくりである。

 

技術の進歩は諸刃の剣?

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©2016 Twentieth Century Fox

さて、ネタバレには気をつけたいのだが、物語の中ごろで"物"のほうのコンピューターがラングレーにやってくる。HALもといIBM 7090だ。

IBMのコンピューターといってもThinkpadなんかではなく、大広間をまるごと占拠するくらいの巨大な金属の箱で、記録媒体は当時の先端技術、磁気テープだ。

とはいえ何やら難しい計算が1秒で何万回だかできるという代物で、こんな頭のいいやつが来たら役目を失う人が当然ながら発生することになる。

本作ではそんな危機もいい感じに乗り切るのだが、こう上手くいくことばかりではないのが世の常。

技術が進歩して、手間が省けた分だけ、それをもともとやっていた人があぶれてしまう。これは有史以来、新たな道具が生まれるたびに繰り返されてきたことだ。

技術の進歩は、必ずしもすべての人を幸せにするとは限らないのだ。

 

機械に職を奪われたら、どうする?

19世紀初頭、産業革命期のイングランドで、力織機の登場で職を奪われた職人たちが、機械という機械を打ち壊しまくった。ラダイト運動である。

彼らの立場も気持ちも想像はできるけど、現代に生きる我々から見ると、あまりに愚かな行ないに思えてしまう。

なぜなら道具の発展こそ文明の進歩であり、何千年も前から絶え間なく続く技術革新が私たち人類の暮らしをより楽で便利で安全で有意義なものにしてきてくれたことは疑いようのない事実だからだ。

人間は、自分が生まれてからある時点まで存在した技術は当たり前のものとして享受し、それ以降に生み出されたものを「過剰な技術」として毛嫌いするものだとよく言われる。

しかし、力織機がダメなら、針はどうなのか。綿糸を作る糸撚り機はどうなのだろうか。製綿技術も捨てて毛皮でも着るか?

ゴアテックスのレインウェアもアンダーアーマーのコンプレッションシャツも人間の手では作れないし、作ろうとする必要ももはやないのだ。

ハンドメイドのすべてを端から否定するつ折りはさらさらないが、「手作り」である必要が明確にない限り、「作業」は機械がやればいいのだ。

もちろん、誰かの立場を守るためには多少の非効率を肯定することは時に必要かもしれない。でも、長い目で見れば、やがて来るむなしい未来には結局は抗えないのだ。

 

機械との本当の"闘い"

2045年ごろには、AIは人間のそれを超える知能を手にするであろうと言われている。

すでに現在でも、機械の急速な天才化によって人間の職が多く奪われつつある。先月からSEIYUの会計は一部が機械精算になった。レジ係の人たちはどうなるのだろうか。

そして、それらに対して抵抗する向きがここ20年ほどで発生した。これはネオ・ラダイト運動と呼ばれる。

これも根本は200年前の打ち壊しと同じことだ。

かつて写真やさんの微妙な手作業に依っていた覆い焼きや焼き込みも、Photoshopではクリック一発でできるし、ショートカットキーひとつでやり直すこともできる。これは技術の進歩だ。手段の簡略化だ。そこに「撮りたい写真を撮る」という目的は失われていない。人間が人間たるための根幹とも言える「創造性」はまだそこにあるのだ。

ここまでは、機械は「作業」の代替、「道具」の延長でしかなかった。しかし、AIの急速な進化は、人間のアイデンティティの根幹とも言える「創造性」を脅かしている。

「いやいや、どんなに便利な世の中になっても、人間にしかできない「創造的な」ことがたくさんあるでしょ」 我々人間はそう信じたいはずだ。

しかしやがて、それも間もなく、たとえば絵を描くことも、曲を作ることも、人の目を引くグラフィックデザインも、涙腺を刺激するようなストーリーライティングも、機械はできるようになってしまうだろう。

機械が診療し、処方箋を出し、調剤し、薬を販売する。クラウド上のデータベースで何億人もの症例を参照し、誰よりも正確な診断が下せる。心のカウンセリングにしても、人間より口が固いから信用してすべてを打ち明けることができる。

機械が被告人を告発し、弁護し、陪審し、判決を出す。機械の客観性は折り紙付きだし、気の毒な被告人への情状酌量もプログラム済みだ。

機械が政策を決定し、国内外の問題を合理的に解決する。経済にも強く、外交の手腕も巧みで、生長◯の家や神社◯本庁のロビイングも通じないし、嘘をつかず、賄賂も受け取らず、パワハラもしない。歴史修正もしないし、愚衆に媚びて排他主義を煽ることもない。

そしてやがて、より優れたAIを積むためのハードウェアも、機械自身が勝手に開発・改良していくことになるだろう。

"クリエイティブ"な人間にとって不可侵であると信じていたはずの領域にまで、機械はどんどん入り込んでくるのだ。

ラダイト運動やヒッピームーブメントとは話が違う。人間のアイデンティティの最後の砦を揺るがす事態が目前にせまっているのだ。

作業能力も創造性も奪われた人間に、いちばん最後に残るものはなんだろうか。

心?

これもそのうち賢い陽電子頭脳が手にしてしまうだろう。思考回路が人間のニューロン並みに複雑化すれば、そこにゴーストが発生しても何ら不思議ではないはずだ。宇宙時代には、人間であるイライジャ・ベイリはただの足手まといにしかならないかもしれない。

そうなると、「部外者」たちによる本格的なアイデンティティ侵略に対し、人類は圧倒的な差別と暴力をもって生意気な機械の野郎どもを抑えつけようとするだろう。「機械のくせに生意気だ!」「俺の人生がダメなのは機械のせいだ!」今はまだ一部のパーたちだけのものである「排外主義」という病に、人類全員が感染してしまうのだ。

まあそれも、人間が強者であるうちの話ではある。スカイネットが出来上がってしまったらもうお手上げだ。

りんたろう監督『メトロポリス』後半の暴動みたいに、すでに感情を持ってしまったロボットをぶっ殺すことなんて私はしたくない。だからその前に、私は私のやり方で機械に対抗したい。俺は俺のやり方で証明。

 

#2 実践編

私は翻訳者というのがやりたい。今までの仕事でも英↔日の翻訳作業を散発的にやっててけっこう楽しいのだが、1冊の本を訳すというのが、ちょっとやってみたい。

ここで「翻訳者になりたい」ではなく「がやりたい」と書いたのは、完全な専業翻訳者というのは、ある懸案のために、これからの時代かなり難しそうだと考えているからだ。

 

Google翻訳」 である。

 

正直こいつの性能は半端じゃない。複雑な文章だとてんでダメなときもあるが、ときどき驚くほど完璧な訳文を打ち出してくる。それも入力して1秒以内にだ。

訳者の裁量や芸術的手腕があまり必要とされない事務的な翻訳では、多くのプロ訳者が下訳(したやく)としてAI翻訳を利用しているという。

「もっと正確だったら、そのまま完成原稿にできるのに」なんて思うこともあるが、そうしたら翻訳料は私に払われる必要がなくなってしまうな。機織り職人のジレンマがここにも頭をもたげてきた。

 

Google翻訳はここがすごい!

たとえば、"The necessary degree of influence is..."を翻訳にかけると、0.5秒ほどで「必要な影響力は」と出る。

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そのまま"機械的に"訳せば「影響の必要度は」とでもなるはずのところを、「度合い」を表す"degree"を「影響」のほうにくっつけたのだ。こちらのほうが幾分自然な日本語に仕上がっているように思われる。これは数年前と比べたらケタ違いの進歩だ。

 これは結局のところ、翻訳という仕事もまた、外国の書物を日本人が読むという「目的」のための「手段」でしかなかったということなのだろう。機械がやってくれれば、ほんやくコンニャクでも発明されれば、そのほうが楽で便利で、きっとより多くの人が幸せになれるのだ。

 

 Google翻訳の弱点を突く!

とはいえ、俺は訳したい。なのでこれにレジストしたい。機械と俺の全面戦争を始めたい。

Google翻訳には修正提案機能なるものがある。

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不正確だったり不自然だったりする翻訳結果に、修正案を送信することができるのだ。これを元にGoogle翻訳はより正確で自然な翻訳結果をぶち出せるよう日夜成長を続けているのである。

毎日万単位の翻訳者がプロフェッショナルによるプロフェッショナルな翻訳のヒントをこの憎きAIにまんまと教授してしまっているのだから、彼奴の目覚ましい進歩も頷けるというものだ。おい、それでいいのか! お前らそのうちこいつに職奪われるんだぞ!

この機能は、我々が唯一、Google翻訳の機能に影響を与えることのできる穴でもある。私はここを攻めようと思う。

方法は簡単、変な修正案を送りまくるのだ。

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英文のサンプルとして思いついたのがキング牧師のスピーチだったので入れてみた。ちゃんと読んだら涙が出てきた。この時点で訳文がなんか変なのでサンプルとして微妙だったかもしれないが、これをたくさん「修正」してあげるとしよう。

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まずはジジイ口調だ。老人語というのは少なくとも江戸時代後期あたりから創作物中のジジイの口調の記号として存在するそうだ。これを続ければいつか翻訳結果にジジイ語が交じる日が来るかもしれんぞい。

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次はニコチャン弁*1大友克洋先生は過去にニコちゃん大王の解剖図を勝手に考えて商業誌に載せたことがあり、そのほかにも事あるごとに鳥山明先生にモーションをかけてきた。第?次大友ブームのとき(GENGA展のとき)に大友先生と江口寿史寺田克也中川いさみ先生で酒を飲みながら喋るユーストリームが配信されたので、私はひたすら「鳥山明」とコメントし続けて、そのたびに大友先生が「あ……」「ねえ、鳥……」「あ、鳥山明って……」と鳥山先生の話を始めたがっていたのにみんな無視して別の話を続けて、しばらくして大友先生が「ねえ、鳥山明ってあるけど!」といった際に江口寿史が「俺、鳥山さんとは同い年だけど、漫画家としては1年先輩なんだよね。でさあ……」と意味のないエピソードを披露してからすぐ別の話を始めてしまい(たしか江川達也の悪口)、鳥山先生の話が終わってしまった。大友先生はもっと鳥山先生の話がしたかったようで、寂しそうな顔をしていた。大友克洋先生は鳥山明先生と仲良くなりたかったのだ。これは世界で、チタマで私だけが把握している事実である。今年の初めごろにアキラ時代の3代目アシスタント、高畠聡さんのトークショーに出席した際に、かつての吉祥寺の作業部屋にDr.スランプのコミックスが置いてあったとの証言があった。高畠氏も「大友さんもアラレちゃん読むんだなーと思った」としか言っておらず、アシスタントですら大友先生の熱い思いには気づいていなかったようである。これは恋であり、愛であり、フィリアでありエロースでなのだ。これは私だけが気づいている。

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これは学者口調であ〜る・ダニ〜ル。チチはずっと悟飯を学者にしようとしていて、悟飯もずっと学者になりたがっていて、最終回でついに学者になれけど、いったい何の学者になったのかは誰も知らない。長方形のメガネを掛けて何かの本を読んでいるだけで学者を名乗るな! ちゃんと「であ〜る」って言え!

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最後に、すべての文末にウンチをつけました。汚くてごめんなさい。うんちという言葉が大好きなんです。私は自分の尻に合わないサドルに乗り続けたせいで、学生のころ陰部神経痛という病に倒れてしまい、うんちを漏らしやすい体になってしまったと思っていたんですが(いつか詳しいお話を書きます)、そういえばその前からよく漏らしていたので他に原因がありそうです。ギリギリまで我慢してしまう癖がいけないのかもしれません。

 

以上、こうした地道なヴァンダリズムが着実に文明の進歩を食い止め、われわれ人類の雇用を守ることに繋がるのである。

私は時代に逆行する反知性主義者だろうか?

そうかもしれないが、でも、しかし……

手塚治虫小松崎茂が半世紀前に思い描いた空中ハイウェイや空飛ぶ自家用車なんてもう半世紀くらいは実現しそうにないし、宇宙旅行や時間航行なんて夢のまた夢だけど、そのころ誰も想像しえなかったような、当時のハイエンド機の何億倍も高性能なコンピュータがほとんどの国民の携帯電話に納まっている現在、機械の天才化はもう歯止めが利かなくなりつつあるのだ。

その結果できたのがアトムならいいけど、ミッチィだったら悲劇だぞ。

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今、この瞬間に、ウンチをすべての文末に付けた修正案をGoogleに送らなければ、取り返しのつかないことになってしまうのだ。

そう、今すぐGoogleにウンチを送るのだ!

Googleにウンチを送れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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※一部の職種を作業呼ばわりして偉そうなことを言っているようですが、すべての人間の生産的な営みが「作業」として取って代わられかねないという漠とした恐怖を冗談を交えて表したものであって、どの仕事が偉いとかすごいとかの話ではないし、手作りの織物のすべてを無価値とするものでもないし、集団ヒステリーを煽るつもりもありません。Google翻訳に変な言葉を送るという冗談(思いついたときはおもしろいと思った)を引っ張り出すための前置きなので真に受けないでください。Google、ごめんなさい。

日本でいちばん使われている挨拶「スー」について

 最近気づいたのだが、私は仕事などで「はい」と返事をすべき場面でいつも「アイー」や「オイー」と言っていた。ずっと。

挨拶はコミュニケーションの、人間関係の基本だ。

朝会ったら「おはようございます」、昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」、寝るときは「おやすみなさい」。職場や学校では会ったり別れたりするたび「おつかれさまです」が乱発されている(何に疲れてるの?)。

この中で一番使われるのはどれだろうか。人と会うのは多くが日中だから「こんにちは」? いつでも使える「おつかれさまです」?

 

答えはどれでもない。「スー」だ。

「スー」は無声歯茎摩擦音。声帯を震わさずに舌と歯茎の間に息を通す。公の場では使われないが、おもにトイレや休憩室、喫煙室などで誰かと出くわした際、かしこまって「こんにちは」「おつかれさまです」と言うほどでもない場面に必ず使われる非公式の挨拶だ。信頼できる筋の統計によれば、日本でいちばん使われている挨拶は「スー」だという。

では「スー」とは何か。ここに3つの仮説を立てる。

 

1. ウッスの「スー」

2. こんちわっすの「スー」

3. Tschüssの「スー」

 

1. ウッスの「スー」

ウッスはオッス。オッスは押忍。押忍は京都の旧武専(かつて講道館と柔道界を二分した西の雄、武徳会が運営していた「武道専門学校」。戦後、規模があまりに大きかったため危険視され、GHQにより解体。生き残った講道館講道館中心の柔道史を記し、その他の伝統をなきものとした。勝てば官軍とはこのことである。詳しくは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也/新潮社)『性と柔: 女子柔道史から問う』(溝口紀子河出書房新社)を参照のこと)の生徒のあいだで「おはようございます」が「おはよーっす」となり、「おわーす」「おす」と変化していったものだそうだ。*1

漫画『はだしのゲン』では戦中の時点で学徒の間ですでに「オース」「メース」「サース」という変化球まで登場していた描写がある。小学生のころ、「『サース』は『挿す』だ! これは下ネタだ!」と盛り上がったことがある。

ウッスは体育会系の男性は100%使うライトな挨拶だ。「ウッスー」「ッスー」から「スー」である。「こんにちは」「おつかれさまです」どころか、かしこまって「ウッス」と言うまでもないトイレや休憩室において、人は「スー」と言うのだ。

 

2. こんちわっすの「スー」

こんちわっすは「こんちは(こんにちは)」+「ッス」。「ッス」は助動詞「です」だ。「こんにちはです」などという日本語は存在しないが、「ッス」は体育会系の男性なら100%が使う「敬語」であるため、こうなるのである。「こんちわっす」「ちわっす」「ちゃっす」「ちゃす」から派生したのが「スー」である。

 

3. Tschüssの「スー」

これはドイツ語の別れの挨拶で「チュース」と読む。「それじゃ」「そんじゃ」「んじゃ」「じゃ」くらいの軽い言葉だ。トイレや休息室での一瞬の邂逅は、同時に一瞬の別れでもある。とすれば「Tschüss」が「スー」となったとしても不思議ではない。信頼できる筋の情報によれば、戦前に同盟国のドイツに実技研修に行った旧帝国海軍の将校のあいだで、またはドイツ語由来のタームを多用する医学部の学生のあいだで定着した「Tschüss」が、やがて「スー」に変わっていったという。

 

に関しては、語源が「おはよーっす」と「こんちわっす」とほぼ一緒なので同一のものと考えることができる。とすると「(おはようorこんにちは)+っす」か「Tschüss」の二者択一となる。

 

果たしてどちらが「スー」の正体なのか。調査の続報を待たれたい。

変な生き物

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